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残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

日本のクラフトビールの先駆けとして知られる「COEDO(コエド)ビール」の「協同商事コエドブルワリー」(本社・埼玉県川越市)。同社は今年、コロナ禍で中止を余儀なくされた伝統的な祭りの復活を特別ビールで応援するプロジェクトを始め、注目を集めている。

クラフトビールは小規模な醸造所でつくられる個性的な味わいが特徴で、同社は今回、 副原料として地元県産のブランド米を使った「祭エール-Matsuri Ale-」を特別醸造し、1本(350ミリリットル缶、438円)あたり20円を寄付するという。

「小江戸」と呼ばれた城下町・ 川越市の「川越まつり」への応援ビールを今年2月に発売したのを皮切りに、4月には山形県の花笠まつりなど東北6県の代表的な祭り、そして10月8日には埼玉県秩父市の秩父夜祭のための「秩父夜祭エール」を予定している。

秩父夜祭は、2016年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された秩父神社の例大祭。毎年12月に行われる笠鉾(かさぼこ)・屋台の豪勢な曳行(えいこう)は見物だが、20年は取りやめとなった。秩父市によると、今年も中止を含めて協議中で10月中旬に公表予定という。

「クラフトビール界にはエール(ALE)とラガー(LAGER)の二つのスタイル(醸造製法)があります。『エールビールでエール(YELL)を送る』ということでビールメーカーならではの応援プロジェクトを開始させてもらいました」

朝霧重治社長(48)は8月28日に秩父市の観光施設「ほっとすぽっと秩父館」で開いた記者会見で「COEDO MATSURI YELL PROJECT」と名付けた企画の狙いを語った。

20°C程度の中温度帯での発酵を好む上面発酵酵母によるビールは、香りとコクが特徴の「ALE」(エール)と呼ばれる。スポーツ観戦などで選手に応援する際に発する声を意味する「YELL」(同)の二つの日本語の音を重ね合わせ、復活への思いを込めたという。

残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡
「今年からは原料である麦づくりにもチャレンジする」と語る朝霧重治社長=埼玉県東松山市の醸造所で21年3月16日(臺宏士撮影)

この日の記者会見には地元で観光産業にかかわる団体関係者のほか、「秩父夜祭エール」を協同商事とともに開発した秩父市のクラフトビールメーカー「秩父麦酒」の丹広大代表も同席。丹代表は「クラフトビールのファンの方だけでなくビールに馴染(なじ)みのない方も飲みやすいような味わいにしようとモルトやホップの選定にこだわった」とPRした。秩父麦酒の醸造設備 を、協同商事がかつて使用していた縁があるという。

「秩父夜祭エール」で副原料とした米は、秩父市内で収穫された埼玉県のブランド米「彩のきずな」。米を使用することで、すっきりとした飲み口とバランスの取れた仕上がりとなったという。

ラベルのデザインは、テレビでの放送から今年で10周年を迎えた、秩父市が舞台の人気アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(フジテレビ系列で11年放送)で描かれた「秩父夜祭」をモチーフにした。初回の販売本数は1万本だったが、予約の受け付けを始めたところ好評で、1万6000本の追加製造を決めた、という。

朝霧社長は「秩父市を全国に知ってもらい、秩父夜祭が開催されたときには秩父に来ていただきたい」と呼び掛けた。

残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡
 10月8日発売予定の「秩父夜祭エール」の商品イメージ(提供・協同商事)

クラフトビールメーカーとして軌道に乗るまでの苦難

協同商事が、「COEDOビール」のブランド名でクラフトビールを売り出したのは、2006年10月だ。瑠璃(Ruri)、伽羅(Kyara)、漆黒(Shikkoku)、白(Shiro)、紅赤(Beniaka)の5種類で、のちに毬花(Marihana)を加えて現在の6種類の定番ラインナップとなった。紅赤だけは、川越市の特産品のサツマイモが原料の発泡酒だ。

商品開発を進めるなかでビールにはいろんな色があることに気付いた、京都の大学で伝統的な日本美術を学んだ デザイナーの助言もあり、海外への輸出を視野に日本の伝統的な色合いから名付けることにした。「COEDOビール」のロゴは、家紋などで使われる「輪違(わちがい/輪をずらせて組み違いとした形)」の文様をホップの葉で表現したという。

翌07年4月には国際評価機関「モンドセレクション」(本部・ベルギー)のビール部門で最高金賞を「紅赤」と「瑠璃」の2種類が受賞。「瑠璃」は、10°Cほどの低温を好む下面発酵酵母を使ったピルスナービールだ。このときに出品した全5種類が受賞するなど順調に滑り出した。ただ、それまでの道のりは決して平たんではなかった。

1994年の酒税法改正でビール製造免許の取得に必要な最低製造量が緩和されて、全国各地の観光地を中心に「地ビール」が誕生し、青果物流通を手掛けていた協同商事も96年に製造免許を取得し、ビール生産に乗り出した。

ご当地の観光土産色が濃かった当時は、地域おこしの発想から地元の農産物を原料にした地ビールが多く、同社でヒット商品となった「サツマイモラガー」も名前の通りサツマイモを原材料にした。

2018年の酒税法改正まで「ビール」の原料は麦芽比率が67%以上で副材料は米、麦、トウモロコシに限られた。それ以外の果実やハーブなどを副原料に使うと、発泡酒に分類された(改正後は重量が麦芽の5%以下であればビールと認められるようになった)。協同商事はサツマイモを原材料にした地ビール製造を目指したため、取得したのは発泡酒の免許だった。

地ビールブームも手伝って当時は「小江戸」とブランド表記したビールの売り上げは伸び、醸造工場に併設したレストラン「小江戸ブルワリー・川越」(96年4月開店)は 2、3時間待ちで深夜まで賑(にぎ)わいを見せたという。各地に広がった醸造所とレストランを合わせたお店はブルワリーパブと呼ばれた。97年7月にはビール製造の免許も取得し、それまでの20倍の生産力を持つ新工場(埼玉県三芳町)を同月に稼働させるなど、協同商事はビール事業を一気に拡大させた。

残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡
川越まつりを応援する特別醸造ビールの発売を記者会見で発表する朝霧重治社長(右)。左は川合善明・埼玉県川越市長=醸造所(朝霧社長の後ろ)を併設した川越市のレストラン「コエドブルワリー・ザ・レストラン」で21年2月15日(臺宏士撮影)

「大企業病にかかる前に辞めたほうがいい」義父の誘いが転機に

朝霧社長は98年9月に1年半務めた三菱重工業を退社し、協同商事に入社した。当時の社長は高校時代から交際し、後に妻となる女性の父親である故朝霧幸嘉氏。生協で青果バイヤーをしていた幸嘉氏が28歳だった75年に協同商事を創業し、82年に法人化した。その幸嘉氏から「大企業病にかかる前に早く会社は辞めた方がいい」と強い誘いを受けたことが転職のきっかけだった。

「三菱重工業に入社し、広島製作所で製鉄機械の輸出担当になりました。中国に製鉄工場を建設する仕事です。製鉄技術を学ぶために広島に来た多くの中国人技術者らと一緒に仕事をしました。当時の中国経済は外国に開放されたといってもまだ人民服を着ている人たちもいて、日本企業が中国での製鉄所建設に協力する描写が出てくる山崎豊子の小説『大地の子』で読んだような世界でした」

一橋大学の学生時代は沢木耕太郎の紀行小説「深夜特急」の強い影響を受けて、中国やインドといった国々を訪ねるバックパッカー。こうした国々でのインフラ整備にかかわる仕事がしたいと思って選んだのが三菱重工業だったが、もともと独立志向が強かった。

「経済学部で入学しましたが、3年生の時に商学部に転部しました。専門的な科目が増えるにつれて理論よりも実践的な学問を学びたいと思うようになったのです。会社を経営しよう、いずれは起業しようという思いがありました。入社の誘いには結婚の約束があったわけでもなく、協同商事に転職することなど考えてもいなかったので驚きましたが、決して縁遠い話でもありませんでした」

協同商事は、幸嘉氏が農協とは異なる有機野菜の産直流通に目をつけ、トラック100数十台を保有するまでに成長。物流事業を主軸に、全国からの有機農産物の買い付けや、ビール事業への参入に伴って乗り出したレストラン事業など経営を多角化させていた。

朝霧社長はビール事業を主に任されたが、すでに地ビールブームは去り、売り上げは伸び悩み始めていた。東京大学大学院で工学を学んだ中国人スタッフらと事業の立て直し策に頭を悩ませた。

「バイオテクノロジーでもある発酵管理から酵母を除去するろ過、高精度の充填など高い醸造技術が必要なビール製造は難しく、日本国内の多くの醸造所で品質が安定しませんでした。このため観光地を中心に広がった地ビールは高くてまずいというイメージまでつき始め、『クセがある』という表現で、地ビールは馬鹿にされていました。協同商事のビールもそうした悪評に巻き込まれてしまいました」

新工場建設を決断したときの想定ほど需要は伸びず、過剰設備となった工場の稼働率を上げるためにコンサルタント事業も手掛け、ラ・フランス(山形市)、ブルーベリー(東京都日野市)、そしてあんず(長野県千曲市)といった各地の特産品を原料にした地ビールの受託製造も100種類を超えたという。

バブル崩壊後に進んだデフレ経済の進行も追い打ちをかけた。キリンビールが98年2月に発泡酒「淡麗」を売り出したことをきっかけに大手ビールメーカーの間でも低価格競争が激化。350ミリリットル145円程度にまで進んだ低価格商品に対抗して、「日本一安価な発泡酒」として「小江戸蔵の街NO.2」(330ミリリットル、138円)を販売したが、歯が立たなかった。

残された望みはビール事業だった

協同商事のビール事業が苦境に直面するなかで、朝霧社長が組織の代表権を持つ副社長に30歳で就任したのが入社から約5年たった03年6月。幸嘉氏から会社の将来を任された。

川越市の観光客数は右肩上がりで、95年に375万人だったのが、コロナ前の19年は775万人にまで増加するなど観光土産としての地ビールをめぐる環境は決して悪くはなかった。朝霧社長はご当地ものの需要は必ずあり、新工場という設備投資を行わず、従来設備の生産規模であればビール事業はそれなりに安定していただろうと、みる。しかし、現実には多額の投資をしてしまっている以上、ビール事業の立て直しは急務だった。

一方、協同商事の他の事業部門の将来性も決して明るくはなかった。本業であった物流事業は、規制緩和で多くの企業が参入し、ドライバー不足も重なって過当競争。有機農産物の卸しは薄利多売。参入障壁が低い飲食業(レストラン経営)は、専業でやるべき業種だと考えていた。残された望みはビール事業だけだったとも言えた。

「逆説的になりますが、工場を新設してしまったからこそいまのCOEDOビールがあるのかもしれません」

ビール事業の再建にあたって幸いだったことがあった。協同商事では新工場の建設に合わせてビールの本場ドイツから4代続くビール職人を招きその指導の下で5年間にわたって学んだ醸造技術の蓄積があった。駐日ドイツ大使館の職員ら在日ドイツ人の評判は良く、川越を訪れた米国からの観光客にも好評だったという。

約2年間にわたる検討の結果、観光地土産ではなく、本物のクラフトビールを伝えるメーカーへの脱皮を目指すことにした。朝霧社長がビール事業の立て直しに必要なつなぎ資金として目を付けたのが、高濃度酸素入りのドイツ製ミネラルウォーターの輸入販売だ。これが爆発的に売れた。

「入社してからの5年間、見つめてきたビール事業は『面白い』と思ったのです。反省しなければいけないことはたくさんありましたが、お客さんに喜ばれる市場を将来作ることができると、その可能性に賭けました。小規模醸造所によるビール文化が浸透しているドイツやアメリカのようなクラフトビールを追求することを社員に発表しました。物流事業部門は退職者の補充を控え、3店舗あったレストラン経営からは思い切って撤退することにしたのです」

サツマイモやリンゴ、梅などを原料にした約20種類にも膨らんだそれまでの商品はすべて販売中止にする、ビール事業の全面的な見直しを行った。

新商品のコンセプトは「Beer Beautiful」。地ビール色を排除し、「小江戸」という漢字表記から「COEDO」とローマ字表記に変更し、デザイン性を考えて「小(こ)」は、「K」ではなく、「C」にした。素材や製法、そして商品名など嗜好(しこう)品としてのブランドにこだわり抜いた「クラフトビール」として再出発させたのだった。

「これなら再建できると自信を持ったビールが出来上がりました」

残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡
COEDOビールのファンが集まる「コエドビール祭」は2007年から毎年開かれ(2016年は>除く)、19年は家族連れら約7000人で賑わった=埼玉県川越市の多目的施設「ウェスタ川越」の交流広場で19年9月23日(臺宏士撮影)

自家製麦を開始 コロナ禍での挑戦

「ドイツの職人を招き製造技術を導入したことは間違いではなく、今日のCOEDOビールの礎となりました。義父(幸嘉氏)は、創業者としての夢を語るだけでなく、理論的な裏付けのある話のできる社長でした。一次産業から三次産業までを総合的にとらえる、いまでいう『農業の6次産業化』を認識していて、有機農業は農産物の価値を高めると考えていたし、ビール事業も決して思い付きではありませんでした」

COEDOビールはその後も欧米の大きな品評会で次々に受賞するなど高い評価を得て、海外輸出は伸び続けた。08年に初めて輸出したのは「紅赤」で、米国のレストランで提供された。今日ではフランスや香港など25カ国に広がり、生産量の3割は海外の外食産業向けだという。

2016年、埼玉県三芳町にあった工場を東松山市に移転 。精密機器メーカーの研修施設を造り替えて生産能力をさらに高めた。設備はドイツから新たに輸入した。新工場では、「ビール学校」と銘打ったクラフトビールに関心を持ってもらうための一般向け工場見学もスタートさせたという。副社長の就任時と比べると売り上げは5倍に成長したという。

残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡
2016年に開設した新たな醸造所は、田園地帯に立地する企業の研修所を改造した=埼玉県東松山市で21年3月16日(臺宏士撮影)
残された望みはビール事業だった COEDOビール再建までの軌跡
醸造所の内部=埼玉県東松山市で21年3月16日(臺宏士撮影)

新型コロナ禍が広がった20年春は、緊急事態宣言の発令に伴う飲食店の休業などで業績は大きく揺らいだ。しかし、その一方で個人向け需要が増え、コンビニエンスストアやオンラインでの販売などに力を入れた。欧州での経済活動の再開などもあって、ビール事業を含む21年3月期の売り上げは、前期比約4%増の約18億8580万円だった。

「協同商事のビール事業は、かつて川越の農家が土づくりのために緑肥として植えていた麦を麦芽にしたビールを作れないかと、前社長が着想したことから始まりました。しかし、海外の安い麦芽と比べると価格面ではどうしても難しかったので断念せざるをえませんでした。 麦の生産コストを回収するビジネスモデルであれば、原料である麦からビールをつくることは可能ではないかといまは考えています」

朝霧社長は20年、COEDOビールの原点を見つめ直した。実家の畑に植えた1000粒の麦の種から約10キロ分の種取りをしたという。東松山市の醸造所の周辺農地を麦畑にして、自家精麦に乗り出そうというのだ。

「いま土づくりに励んでいて今年度は、自社敷地の10アールを実験圃場(ほじょう)として麦を植えます。トラクターも購入しました。耕作放棄地が広がる中、将来農地を拡大できれば、景観の維持にもつながると思います。少量ですが、22年度中には商品としてお出しすることができるでしょう。キャッチフレーズは『畑からグラスへ』。ビールメーカーだからこそできることだと思っています。急成長は考えず安定的に毎年成長する経営をこれからも心掛けていくつもりです」

クラフトビールメーカーとしてのチャレンジは続く。

(取材・文・撮影=臺宏士)

あさぎり・しげはる/1973年6月、埼玉県川越市生まれ。県立川越高校、一橋大学商学部卒業。97年4月に三菱重工業入社。98年10月に協同商事入社。03年6月、同社代表取締役副社長。09年6月から現職。

【祭エール-Matsuri Ale-】
協同商事コエドブルワリーが「COEDO MATSURI YELL PROJECT」向けに開発した「祭エール-Matsuri Ale-」は、副原料として各祭りの地元で開発され、収穫されたブランド品種の米を使っているのが特徴だ。東北6県の祭りは、青森ねぶた祭り(晴天の霹靂)、秋田竿灯まつり(あきたこまち)、岩手盛岡さんさ祭り(金色の風)、福島わらじまつり(天のつぶ)、宮城仙台七夕まつり(だて正夢)、山形花笠まつり(つや姫)だ(カッコ内は、米の品種名)。秩父夜祭、川越まつりは「彩のきずな」。ラベルは各祭りのポスターを使用したデザインだ。たとえば、川越まつりは歴代のなかから唯一イラストを使った92年版を使った。これまでの販売量は約20万本。協同商事の約100人の社員のうち約3分の1がビール事業に所属している。

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